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実践躬行

2012.12.08(20:57)

しかし まぁ 何やねぇ~


原発話はちょっと休憩して、個人的にかなりショックに陥った事柄をご紹介する。



ゆうべはちょっと、ほたえすぎた。いつもはシンデレラおじさんで帰るのだが、どっこい飲みすぎて

しまった。どこかでスイッチが入ったようで記憶に自信がない。この記憶が飛ぶという現象は実に

もったいないもので、いくら絶世の美女に囲まれ酒池肉林の思いをしていても記憶にないのだから

なかった事と同じで、しかも軽くなった財布だけはしっかりと記憶を留めていると言うのも悲しい。

まぁ、取っ掛りはそんな軽い後遺症を抱えながら近所のABC食堂でランチだ。とりあえずはこうなる。

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飲みながら昨日の深酒の原因を考えてみると、やり切れぬ感情のはけ口がついつい記憶破壊へと導かれた

のだろうと自己弁護の心境で深くは追求する事をたしなめたが、どうにも引っかかる。


昨日は、以前から行きたいと思っていた「葛飾北斎展」を観に市立美術館へと足を運んだ。

北斎については、多くの方も知る浮世絵の巨星であり、ゴッホを始めとする印象派の画家や他の世界の

芸術家にも影響を与えた日本のビックネームである。北斎の類まれなき天才の持つ観察力と構図の視点、

表現力や描写力の正確さなど、とても生身の人間では到達できない、まるで連射カメラの如き目を

持っているのだ。しかも生涯において3万点以上ともいう作品を描いているのだから尋常ではない。

12-12-07-0.jpg


平日にもかかわらず最終日も近い事もあってか、館内は行列が出来るほどの盛況ぶりを見せていた。

通常、家元の美術鑑賞は一連の作品を流しながら一巡し、心を鷲掴みにされた作品を逆戻りして見入ると

いう方法だが、こう人が多くてはそれも間々ならず行列の一端へ加わった。

大なり小なり作品というものは作家の魂の写し絵である。命を削るような気迫の入魂された作品ともなれ

ば数点鑑賞しただけで、こちらの魂を抜き取られてしまうほど疲れてしまうため、流し観スタイルという

方法を編み出した。もう20年以上前にもなるが東京近代美術館で梅原龍三郎の作品30点余りを、時間を

かけて真摯に観終わった帰り道、いっそこのまま皇居のお堀に身を投げて死にたいと真剣に思ってから

危険な鑑賞の仕方を止めたのだ。


確かに北斎は代表作富岳三十六景や美人画、肉筆画においても卓越した才能を如何なく発揮しているが

家元の最高に好きな作品は北斎53歳において描かれた画学生のための絵手本ともいえる全15編からなる

「北斎漫画」である。北斎は人物を正確に描くに当たり、人間の骨格や臓器の知識を得ようと解剖学を

も習得した東洋のダビンチで、北斎漫画に登場する人物の筆遣いには目では見えぬ骨格が正に存在して

いる。それ以上にこの北斎漫画の素晴らしさは、まったく気負い無くのびのびと描かれている事だ。

そこには何ら意図も無く、どやさ!の自慢も無く、透き通るような透明感と清らかな世界が淡々と

描かれている。その世界観はある種の悟りに到達した者の境地かも知れない。

北斎と比べる事など、有るまじき行為で恐れ多い事だが家元も新聞の折り込み広告の裏に、何の気負い

もなく走り描く世界が一番気に入っている。


その昔に大先輩から言われた事がある。

「アートの世界とは人様に己のケツの穴を堂々と見せられるか否かで成否が決まる」

という言葉だが、未だにケツの穴を見せることが出来ずに、ついつい「えぇカッコ」をしてしまうのだ。

考えてみれば「えぇカッコ」の根本とはいかに己の本質が希薄であるかの防衛本能とでも言うか、自己

の内容があまりにも薄っぺらで、俗物の権化であることを知られたくない為のメッキでしかない。

だが中々にメッキを落とし、ケツの穴を見せたときに想像する社会批判や喪失感、孤独感を思うと勇気

が出ないのだ。そんな中途半端な思いが「北斎漫画」を観ていると重く圧し掛かって来たが、幸い飛び

込む堀もなかったので命だけは取り留めた。



何やらもやもやした気持ちを引きずりながら、帰りは久しぶりに南で飲もうと心斎橋で地下鉄を降りる

と大丸百貨店のアートイベントのポスターが目に入った。

「アートアクアリウム・金魚の艶」と題されたイベントだ。まだ飲むには少し時間もあり覗くことに

した。この大丸ミュージアムは三越画廊などと過去には双璧とされる権威あるイベントスペースで

あったが最近は若手のアーティストなどにも広く開放している場所だ。写真撮影も可能と言う事で少し

驚いたが、薄暗い照明の館内に入り更に驚いた。アクアリウムという限りは水族館なのだが、そのまん

ま金魚の水族館になっているだけで、水族館と違うのは水槽の形と光を金魚に当て色の変化が面白いと

いうことらしい。

もし、家元が金魚愛好家ならば早々に関係機関に虐待だと抗議するであろう光景が続くのだ。


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100歩譲ってモダンアートである事は認めても、やり口が気に入らない。これがアートの世界というなら

昔夜店で売っていた赤や青や緑のカラフルに塗装されたひよこも立派なアートではないか!

動物園も植物園も水族館もアートの世界なのか?そこには人間が生き物を展示するという後ろめたさから

可能な限り生息する自然界に近づけ飼育するという、身勝手ではあるが生き物同士の思いがまだ少しは

感じられるが、これはいかがなものか?金魚自体が長い年月をかけて人間が作り上げたアートであるなら

それを尊重する謙虚さが、この作家にはまったく見当たらない。

まるで外国映画に出てくる不愉快極まりない屈折した日本文化と称する映像を垣間見る思いだ。

こんな愚劣なものにスポンサードする豆腐屋もそうなら、受け入れる大丸も大丸で品格と教養の無さに

唖然とする。この作家は特別に美術のアカデミックな教育も受けておらず、経歴からすればイベント屋の

類で要は売名行為の一環なのかも知れないが、これは禁じ手の一つだと考えている。

しかも、先ほど北斎の清らかさに鞭打たれた直後のことで尋常な精神状態を保つことすら危ぶまれたが

よくよく考えてみれば、この程度の批判や反発など作家にとっては想定内の事ではなかったのかと予測

すると、まさに恐れずにケツの穴を堂々と見せているという事になる。

とすれば、えぇカッコして何も創らずケツの穴も見せられず内股でしゃなりしゃなりと歩く家元に何の

批判が出来るであろうか。百の論調より一つの実体の素晴らしさを知っているし恐れ無き若いころには

あまたの批判や中傷を受けながらも作品を世に問いかけた時代もあったが、どうして年と共に臆して

しまうのだろう。北斎にもやられ、金魚にもやられた一日だ・・・

今夜は荒れ模様の酒になるなと覚悟してミュージアムの出口へと向うと、その事を事前に察知するかの

ように来場者に無料で提供されるドリンクを手渡された。


・・・・ウコンの力・・・・

やりよるのぅ~~~






おまけ~目線てこんなこと? 目が線になってますけど~


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