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三人成虎 そのⅢ

2012.12.10(18:26)

しかし まぁ 何やねぇ~


何となく選挙目前を控え、1社の民主党大好き新聞を除き論調も少し変わって来たようで選挙を

行う前から自社アンケートの結果、自民圧勝のキャンペーンを張っている。そして、これを民意と

称し日本を動かす権力構造があることも事実だ。その昔、広告宣伝や企画を生業としていた頃に

上司から毎日のように言われていた言葉がある。

「世間にニーズなどは存在しない。ニーズは我々が創るものだ。」

この言葉が後にも書くが、原発導入を含み凡ての元凶になっている。



今回は正力松太郎がなぜアメリカの核戦略の一翼をになう「原発」を日本に持ち込む手助けを

したのかを考えるが、それには戦前、戦後の日本の状況を多角的に検証する必要がある。

表題にあります「三人成虎」とは、一人や二人が虎が来たと言っても信憑性はないが、三人が言えば

万人が信じるという意味の漢詩熟語です。



従来の説を覆す多くの衝撃的事実が記されていた「正力松太郎ファイル」と題されたCIA文書が発見

されてから、多くの研究者が正力松太郎と原発の関係の本を出版されている。共通している点は彼が

日本の総理に成りたいという権力意識からアメリカと手を組んだという見解だが、どうだろう。

はたして、一人の男の権力欲というだけの事では、動機としては不十分に思えて仕方がない。


彼は明治18年富山で土建業を営む家庭に生まれ、その後現東京大学を卒業、警察官僚を経て大正13年

に読売新聞の社長となり昭和15年大政翼賛会総務に就任、昭和22年東京軍事裁判でA級戦犯とされた

が不起訴となり釈放されている。昭和30年には富山より衆議院議員として当選、31年には原子力委員会

初代会長に就任した。

ここであえて、元号を使用したのは明治・大正・昭和と言う激動の時代の流れを俯瞰的に見る為である。

昭和と言う時代は歴史上において663年の白村江の戦いに敗れて以来、明治、大正と連戦連勝の戦いを

続けてきた日本人が敗戦と言う受け入れ難い屈辱を味わう破目になった時代だ。

本来なら「鬼畜米英」と合唱し、親兄弟、夫や子供が軍人と言わず一般市民までもが犠牲になり

あげく原子爆弾まで投下した神をも恐れぬアメリカに対し、末代までの怨念を持つはずなのに一体

どうしてしまったことなのか?



話はかなり遡る。1908年アメリカのフォード・モータースがT型フォードという車を発売する。

ヨーロッパで発明された自動車は、元来貴族が乗っていた馬車の代わりとして誕生し、一般庶民など

には到底手が出ない代物であったが、このT型フォードは現代でいうベルトコンベアー方式で作られ

大量生産が可能であり、それまでの金持ちの道楽品であった車を一気に大衆でも買えるモノに変革さ

せ、売れに売れまくった。これが資本主義における大量生産の幕開けであるが、この件につきロシアの

社会主義者レーニンは経済主義批判の中で、大量生産し民衆にモノが行き渡ってしまえばその経済の

成長も止まるではないかと述べている。理屈ではその通りだがその事を覆す出来事が起きる。


フォード全盛時代の1925年、クライスラーと言う自動車メーカーが誕生する。車としてはフォードより

高級な仕上げで価格も高い。誰しもがそんなものに需要はなく売れずに直ぐ倒産するだろうと言う

冷ややかな視線であったが、時を同じくしてテレビの放送が始まった。

そこで、クライスラーはテレビを使った販売戦略に出るのだが、テレビの画面では車の特性や性能は

一切紹介されずに当時のアメリカ人が程よく憧れる家庭が映し出される。それなりのリビングには少し

オシャレな家具が配置され、若くて美しい妻と3人のかわいい子供たち、物わかりの良さそうな主人が

さも円満そうに暮らす様がドラマ仕立てのように展開され、その最後にガレージにカメラを移すと

クライスラーの車が初めて現れ、キャプションとナレーションが添えられる。

「幸せのとなりには、いつもクライスラーがあります。」

このマスメディアであるテレビの効果は絶大で、クライスラーは上昇志向のある購買者という市場を

一気に開拓した。これに驚いたCIAは国家戦略の一部として政府に意見書を提出している。

1929年ニューヨーク株式市場の株価暴落を発端とした俗に言われるブラックマンデーで植民地を

持っていなかったアメリカは大きな経済的打撃を受け、リスクを分散させる植民地の必要性を痛感

していたが、もはや遅れて来た大国の植民地政策に同調する国はなかった。

しかしこのテレビと言う新たなマスメディアの登場がアメリカの植民地政策の切り札となって行く。

これこそが「情報化戦略」という人間の心の植民地化である。人間の心は際限なく無限であり

その不安や欲望を駆り立てコントロールする技術の専門家を国家レベルで育成し心理戦局を設ける。


このアメリカの情報化戦略のエージェントとなったのが、正力松太郎であり日本の各テレビメディア

である。昭和28年に日本テレビが放送を開始したが、GHQ(連合国総司令部)に取って代わった

CIAなどのアメリカ政府の情報機関が、戦略兵器と位置付ける程の影響力の強いテレビを自由化など

するよしもなく、事業開設を国の許認可制と定めコントロールできる仕組みを作り上げ、追従する

新聞各社もこぞって許認可を受ける。この事により戦後、一瞬自由化されていた新聞すらテレビ局との

運命共同体となり自由を失い、国家統制の一部に組み入れられる事になってしまった。

そもそも新聞自体がテレビ以前のマスメディアの最右翼であり国家の検閲を受けた、統制道具として

利用されてきた歴史を見ると当然の結果であるとも言える。

その後日本のテレビ放送は、新聞とシンクロしアメリカによる日本国民の洗脳装置と言わんばかりに

クライスラー張りの、自国民をも洗脳せしめた方法で親米放送を怒涛の如く流し始めた。


しかし、その背景には3年前の連合国統治下中に勃発した朝鮮戦争が大きな要因を持つ。

日本の敗戦まで朝鮮半島は日本の統治下にあったが、ポツダム宣言の受諾の時点ですでに朝鮮半島

北部には姑息なソ連軍が日本の北方領土と同じく降伏前に侵攻していた。アメリカはソ連の急速な

進軍により朝鮮半島全体が共産化されることを恐れ、朝鮮半島の南北分割占領を提案した。

ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島を北緯38度線を境に北をソ連軍、南をアメリカ軍に分割占領

したが、日本による植民地統治からの突然の解放に統一的な独立組織の基盤をもたなかった朝鮮は現在も

共産主義と資本主義の大国の狭間にある。その最中1950年に突如、宣戦布告を伴わずソビエトを

後ろ盾にした北朝鮮が協定ラインの38度線を破り南下攻撃を開始して来たのだ。

この事件によりアメリカの日本統治計画は一変する。戦後の日本を如何なる形で統治するかは開戦直後

より思案してきたアメリカではあるが、実際に戦闘した経験により日本人の優秀さと脅威を肌で感じ

一切の工業力や軍事力を持たせぬ国、「観光立国」として再建させるため日本国憲法の草案を作成し

自国の脅威となる戦前の三菱や住友、三井など財閥を一反は解体したのだが、朝鮮戦争に伴い兵員の

駐屯地、武器弾薬やその他軍事物資の補給基地として工業力のある日本を前線基地にせざるを得な

かった。皮肉にもこの突発的に起こった朝鮮戦争が戦後日本の高度成長期の足掛かりとなる。

この朝鮮戦争に日本人も北朝鮮の敷設した機雷除去のため主にアメリカ軍の指示により、海上保安庁の

特別掃海隊を派遣し直接的に参戦し殉職者まで出しているが、当時は公表はされなかった。

戦後、GHQは帝国海軍を解体したが唯一、掃海艇による機雷除去を海軍代表者に行わせ日本近海

のシーレーンを確保させていたが、昭和23年相次ぐ不法入国者を取り締まり、沿岸警備を強化する

必要に迫れれ運輸省内に海上保安庁が設立される。これが即ち海上自衛隊の前身ともいえるもので

陸上自衛隊の前身である警察予備隊は、在日米軍不足を補うため突如勃発した朝鮮戦争まで2年待た

なければならなかった。逆説的に捉えれば朝鮮戦争が起きなければ陸上自衛隊は存在しなかったの

かも知れない。戦前よりアメリカは日本の造船技術や海運技術について脅威を感じており、CIAを

中心に日本海軍との接触を行い情報を収集しており、海軍と陸軍の軋轢を利用しながら更なる対立分断

工作に資金を投下し敗戦へと導いた。

ここで言う海軍と陸軍の対立とは旧薩摩と長州や軍閥、学閥の確執構造ではない。イデオロギー、

思想の対立である。


つづく・・・

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